爪の話

爪を噛むのが癖だった。

物心ついた時には爪を噛んでいた気がする。

「爪を噛むのは欲求不満なのだ」「爪を噛むな」と親に散々言われたことを覚えている。

欲求不満と言われても、己の欲求も分からなかったし、噛むなと言われて、噛んでしまった爪を罪悪感のあまりボンドで貼り付けたこともある。

親はわたしが幼稚園の頃から働きに出て、わたしは2歳児の頃から家で留守番をしていた。その寂しさの反動が欲求か?わたしはひとりでいるのが大好きで、ひとりの時間が確保されない方が今は苦痛だ。それも反動?


高校生の時、クラスで劇をやることになり、主役に選ばれた女の子がメイク係の女の子に「わたし爪噛んじゃうから汚いの」と言って、「そんなことないよ、きれいだよ」と返され、彼女の爪は美しい橙色に染められた。

そのやりとりを見て、長い長い時間噛み砕かれて見にくい長方形になった爪を、心底恥ずかしいと思った。

この爪は、誰にも見せたくないと、固く拳を握り、それから開かれることはなかった。

わたしの手はわたしのコンプレックスの象徴だ。短い指に太い手首、汚い爪。


大学に入り何年か経ち、仲良くなった女性が「いつも手をグーにしているね、それ、あなたっぽいよね、好きだよ」と言った。

その時に、わたしの手はやっと拳から掌になることができた。

それから、爪を塗ろうと思った。石を貼ってみるともっときれいだ。

爪はすくすくと伸びた。今も伸びている。肉の間に隠れ、少しも顔を出さなかった爪が。

角質の塊?いや、わたしにとって、爪は新たに芽生えた自我だ。

誰にも甘えなくていい、開き直ったわたし自身だ。

今日、爪を短く、四角く切りそろえた。

ほんの数年前まで365日深爪だった指先を、深爪一歩手前まで短くそろえた。

また悪癖が出てしまうのが怖くて伸ばしていたけど、もうそれもいらない。わたしはもうわたしの爪を噛まなくても大丈夫になった。自信を持つ第一歩を、歩み始めた気がする。